2022年10月23日日曜日

日本は自由民主主義の社会であり続けてほしい。不快な言動ができるだけ許容される社会であり続けてほしい。

 国家が宗教を管理し始めると中国のような国に一歩近づいてしまうんじゃないのか。それが今回の統一教会問題でぼくがもっとも心配していることです。ぼくは、統一教会が社会にもたらす災いなどより、国家による宗教や思想の統制の方がはるかに大きな災いを人類にもたらすと思っています。

自由とはそもそも「だれにとっても喜ばしいもの」ではない。自由とはむしろ逆に「わずわらしいこと(たとえば今回の統一教会の教義や活動)でもできるだけ許容されていること」に他ならない。なぜなら、個人個人の価値観は一致することはなく、一人の喜ばしいことは同時に他人にとって不快なことが多々あるからです。つまり、自分ができるだけ自由な言動を楽しむことができるためには、自分によって起こされる不快な言動が出来るだけ許容されている社会であることが必要なわけです。 ところが、中国のような社会主義の国家では、国家が国民にとって何が正しいかを決定します。それが国家の責任だと思っている。国民がその権利を放棄して国家権力にその判断をゆだねてしまっている。だから、中国のような社会では、宗教や思想の自由は「反社会的」なものとして、いとも簡単に否定されてしまう。(共産党や立憲民主党が今回の統一教会問題に熱心なのは同じ社会主義思想が根底にあるからだと思っています。社会が個人をコントロールすることに対するブレーキが欠如している。善意からフルスピードでコントロールする。) 日本にはそんな国家になってほしくはない。日本は自由民主主義の社会であり続けてほしい。不快な言動ができるだけ許容される社会であり続けてほしい。 「心の怒りを断ち、おもての怒りを棄てて、他人が自分と違うことに対して怒りをもってはならない。人はそれぞれ心に想うところがあるのであり、他人が良いと思うことを自分は悪いと思ったり、自分が良いと思っても、他人はそれを悪いと思ったりするものである。自分だけが聖人で他人は愚人である、ということはない。人は皆な賢愚合わせ持つ凡夫にすぎない。(聖徳太子 十七条憲法 第十条)」

Syrian Salvation Government

 https://en.wikipedia.org/wiki/Syrian_Salvation_Government 背景 2017年にSSG(シリア救済政府)が設立される以前、イドリブ県は武装反対派グループ、共同運営の地方評議会、そしてシリア反対派暫定政府(SIG)の名目上の権...