https://www.youtube.com/watch?v=T3szD1ifXxU&t=504s
阿藤さんの基本的な方針(データに基づいて国益を考える)には大賛成なので、登録させていただいています。しかし、ときどき賛成しかねるご意見があります。今回の福沢諭吉論もそうです。今回は阿藤さんの福沢諭吉論に対する批判的な意見を述べてみたいと思います。(もし批判は一切受け付けないという方針なら削除していただいて結構です。)
大谷翔平らの例を用いて、遺伝子的に人間の能力は生まれながら同じではないのだから福沢諭吉は間違っていた、というご意見ですが、それは福沢諭吉を誤解されていると思います。
福沢は「万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく・・・」(『学問ノススメ』初編)と述べています。この「同位」とはすなわち「生まれながら貴賤上下の差別な[き]」ことであって、たとえば、大谷翔平も私たち凡人も生まれたときは同じで、努力次第でだれでも大谷になれる、というような能力が同じことを彼が主張しているわけではないと思います。この違いをかれは「有様の等しき」と「権理道義の等しき」の違いとして第二編で次のように詳しく説明しています。
「人と人との釣合いを問えばこれを同等と言わざるを得ず。ただしその同等とは有様の等しきを言うにあらず、権理道義の等しきを言うなり。その有様を論ずるときは、貧富、強弱、智愚の差あることはなはだしく、あるいは大名華族とて御殿に住居し美服、美食する者もあり、あるいは人足とて裏店うらだなに借屋して今日の衣食に差しつかえる者もあり、あるいは才智逞たくましゅうして役人となり商人となりて天下を動かす者もあり、あるいは智恵分別なくして生涯、飴あめやおこしを売る者もあり、あるいは強き相撲取りあり、あるいは弱きお姫様あり、いわゆる雲と泥どろとの相違なれども、また一方より見てその人々持ち前の権理通義をもって論ずるときは、いかにも同等にして一厘一毛の軽重あることなし。すなわちその権理通義とは、人々その命いのちを重んじ、その身代所持のものを守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心との働きを与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛けを設けたるものなれば、なんらのことあるも人力をもってこれを害すべからず。」
ここで彼が使っている「権理道義」あるいは「権理通義」という表現はおそらく英語のHuman Rights (今でいう「人権」)のことだと思われます。それは「大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり。豪商百万両の金も、飴やおこし四文の銭も、己おのがものとしてこれを守るの心は同様なり」という続く言葉でわかります。
さらに、今回の大谷翔平論とも係わりますが、かれは「力士」の例をあげて次のように述べています。
「しかるに今、富強の勢いをもって貧弱なる者へ無理を加えんとするは、有様の不同なるがゆえにとて他の権理を害するにあらずや。これを譬えば力士がわれに腕の力ありとて、その力の勢いをもって隣の人の腕を捻ねじり折るがごとし。隣の人の力はもとより力士よりも弱かるべけれども、弱ければ弱きままにてその腕を用い自分の便利を達して差しつかえなきはずなるに、いわれなく力士のために腕を折らるるは迷惑至極と言うべし。」
この「有様の不同」は、かれの学問論にも貫かれています。かれは必ずしもすべての人に学者になれと言っているわけではないからです。この違いを「身分相応」という現代では誤解されやすい表現で説明しています。「銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備え」よと。簡単にいえば、学者の学ぶことと百姓の学ぶことは違うということです。かれは学問有益論者ですが学問万能論者ではありません。
以上で、福沢諭吉のいう「同位(平等)」は、人間の生まれながらの能力の等しさを主張したものではないことは明らかだと思います。
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