2024年7月6日土曜日

方向誤認の理由 - 邪馬台国の位置

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1.9 方向誤認の理由 - 邪馬台国の位置


<方向誤認の理由>

以上のように、拙著では倭人伝の全ての方向記事17ヶ所(韓国沿岸水行の乍南乍東を除く)について、方向座標軸を65度修正すれば、四大国 (伊都・投馬・邪馬台・狗奴)を含む各国の位置関係が矛盾なく説明できることを示しました。
それでは、なぜ60~70度の方向誤認が起こったのかを以下で説明します。

(1)方向のまぎらわしさ

方向を示す場合、通常は四分法または八分法が使用されます。現代のような測量技術がなかった古代では四分法で言う場合が多く、『三国志』での 方向記事2、237ヶ所中で八分法で記載されているのは、わずか40ヶ所にとどまります。

従って、倭人伝の 「東南、伊都国に至る」「東南、奴国に至る」「東南、裸国・黒歯国に至る」、との八分法は『三国志』でも珍しいと言えます。
拙著では、倭人伝の17ヶ所の方向記事のそれぞれが、四分法または八分法のどちらで記載されているかを検討しました。

四分法の方角は90度の幅を持ち、現実の「東南」は東と記すこともあるし、南と記すこともあります。一方、太陽の昇る方角を「東」として基準にすると 夏至と冬至では約60度違うので、四分法での 「東」は実に150度(90+60度)の幅を持ちます。

太陽が昇る方向を基準として 「東]を決める場合のもう一つの落とし穴は、午前中でも6時と11時ごろでは太陽の位置がかなり違うということです。
古代人が正確な時刻を把握していたとも考えられず、方向を決める際に一日の中で今何時ごろかを正確に認識していなければ、とんでもない方向誤認を 起こす可能性があります。

太陽が昇る方向を 「東」 とすれば方向誤認は起こすはずがない、という学者はざらにいますが、これは間違いです。季節により、また一日の中でも 時刻により太陽の位置は大幅に変化します。

もともと方向というのは間違い易いものの一つで、方向音痴という言葉があるぐらいです。邪馬台国=畿内大和説者が、「後世にいたるまでまぎらわしい 方角よりも、距離・日程、ことに日程が信用できる」 と主張しているのは理由があるのです。

もちろん、内藤虎次郎氏の 「中国の古書では東と南、西と北は相兼ねるのが常例である」というのは言い過ぎですが、状況次第では東と南の90度近い誤認は 有り得るのです。

邪馬台国=九州筑紫平野説者は、「方向は間違えるはずがない、南の記述は現実の地理でも南だ」 と主張し、邪馬台国と並ぶ大国の投馬国を邪馬台国より 「以南」の宮崎県に比定しています。しかし、投馬国は邪馬台国への旅程の途中であり、かつ邪馬台国より「以北」と倭人伝に明記されています。

この投馬国の位置問題は邪馬台国=筑紫平野説の致命的欠陥の一つです。また位置関係がほぼ確実な唐津(末盧国)から糸島郡三雲(伊都国)への現実の 方角は 「東北東」 にもかかわらず、倭人伝は 「東南」 と記しており、60~70度の方向誤認があります。
この一点からしても、「倭人伝の南は現実の地理でも南だ」 とは言えません。


(2)帯方郡使の九州上陸は夏の季節

拙著では、方向の論理について「地点と地点」・「地域と地域」を峻別し、倭人伝の17ヵ所の方向記事のそれぞれが、どちらにあたるかを検討しています。

すなわち、「末盧国から東南陸行500里で伊都国に至る」との旅程記事の「東南」は「特定地点と特定地点」、すなわち末盧国の中心から伊都国の中心までの 特定方角を示します。一方、「狗奴国は邪馬台国の南」という記事は「地域と地域」を示すもので、狗奴国と邪馬台国の領域の大体の位置関係を表現している ものです。

また、拙著では視界内で起こる「方向座標軸の誤認」と、視界外で起こる「地形誤認」による方向誤認を区別しました。

たとえば、唐津(末盧国)から唐津湾越しに糸島半島(伊都国)へは視界内なので地形誤認はありえず、これを「東南」(実際の地理では東北東)とするのは、 方向座標軸に60~70度の狂いがあることになります。

一方、中国・会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とするのも60~70度の方向誤認がありますが、中国から日本列島は視界外なので「地形誤認」による 方向誤認です。すなわち、会稽郡から実際の「東」を指差して倭国がその方向に位置すると判断したのだが、日本列島の位置を誤認したため実際の東には 存在しない、ということです。

さて、唐津(末盧国)に上陸した帯方郡使が唐津湾越しに視界内の糸島半島の付け根にある伊都国を東南と判断したのは、60~70度の方向座標軸の狂いが あることになります。倭人伝の方向記事を検討する場合、視界内かどうかは極めて重要なポイントです。視界内の誤認は方向座標軸の狂いによるものです。

この唐津から糸島半島への方向誤認は、帯方郡使が九州に上陸した季節に関係がありそうです。さきほど述べたように、太陽が出る場所は夏至と冬至では 約60度違います。もし、帯方郡使が夏至近くに九州に上陸して太陽の出る方角を東としたら、実際の東は「東南」と表示され、逆に冬の最中に上陸したら、 実際の東は「東北」と表示されます。

仮に帯方郡使が夏至のころ唐津(末盧国)に上陸したとすると、次図のように夏至のころは太陽は糸島半島から昇ってきますので、糸島半島の付け根の三雲 (伊都国)を東南と判断した可能性が高いのです。




倭人伝には九州上陸地点の末盧国のところで、「倭の水人、好んで魚・アワビを捕え、水深浅と無く、皆沈没して之を取る」とあります。北部九州でアワビを 採るのは八月中旬までです。それ以降になると海にはクラゲが出て皮膚を刺すからです。同じく末盧国の陸路を「草木茂盛し、行くに前人を見ず」というのも 夏の光景です。

もう一つ、古代の航海は気温・水温が低い晩秋から早春、とくに冬期は避けたものです。また、朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道での季節的な風力は、 真夏が最も弱く航海の安全に適しています。

以上のように、倭人伝の描写および航海の安全から見て、帯方郡使の九州上陸は盛夏であった可能性が強く、これが方向誤認を起こした理由の一つです。


  (3)中国人の日本列島についての地形誤認

中国大陸および朝鮮半島から見た日本列島の位置について、歴代の中国正史および他の漢籍は、全て朝鮮半島の「東南」としています。

すなわち、日本列島に最初に言及した漢書(紀元82年作)は単に「楽浪海中」と方向を明示していませんが、その後は三国志魏志倭人伝(280年代作: 帯方の東南)、後漢書(五世紀前半作:韓の東南)、宋書(488年作:高麗の東南)、南斉書(510年頃作:帯方の東南)、隋書(636年作: 百済新羅の東南)、晋書(646年作:帯方の東南)、北史(659年作:百済新羅の東南)、翰苑(660年作:韓帯方楽浪の東南)、通典 (801年作:帯方百済新羅の東南)、旧唐書(946年作:新羅の東南)、唐会要(961年作:新羅の東南)、新唐書(1060年作:新羅の東南) としています。

ところが、現実には朝鮮半島の東南は九州および西中国だけで、日本列島全体(九州~関東~北海道)は朝鮮半島の東または東北東に位置します。
これは次図『大陸側から見た日本列島「会稽東治の東」「帯方の東南」』から分かるように、60~70度の方向誤認があります。

以上のように、中国側は歴史的に一貫して日本列島の位置について、60~70度の方向誤認をしてきたのです。





一方、1402年に朝鮮で世界地図として作成された『混一彊理歴代国都之図』(この地図はヨーロッパやアフリカまで描写しているが、日本を南北に 長い列島と配置している。以下、混一彊理図と省略)を根拠として、古代中国では日本列島が朝鮮半島から台湾近くまで南北に連なっていると誤認していた 、という有力説があります。この場合、現実の日本列島からは約135度の方向誤認となります。しかし、この説は誤りです。

混一彊理図は、室賀信夫氏(畿内大和説)が昭和31年に論文「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像」で畿内説の根拠として紹介した龍谷大学所蔵のもので、 教科書にも載っており有名です。この地図では日本が朝鮮半島の南に南北に連なる列島として配置されています。このことから、古代中国では日本を 朝鮮半島の南に南北に連なる列島と誤認し、結果として邪馬台国は畿内大和が妥当としてきました。ところが、この混一彊理図はもともと中国での地図に 日本からもたらされた行基図(飛鳥~奈良時代の僧侶・行基――生没668~749年が作成した地図)を合成した世界地図である。
ごく最近、長崎県島原市本光寺で同じ混一彊理図(混一彊理歴代国都地図との題名で、龍谷大学所蔵図とは一字の違いがあります)が発見され、 それでは日本列島は東西に正しく配置されています。従来の混一彊理図は地図のスペースの関係で日本を南北に配置したのではないか、と推測されているのが 昨今の状況です。

なお、混一彊理図は以上の他にも天理図書館所蔵図及び熊本県本妙寺所蔵図が有り、これらでも日本列島はほぼ正しく配置されています。

このように、龍谷大学所蔵の混一彊理図は畿内説の根拠としては影が薄れ、評価が一変しているのが最近の状況です。だいたい、1402年と言えば 邪馬台国から1000年以上も新しい。邪馬台国から1000年以上も後世の合成地図で畿内説の根拠とするのは本来ナンセンスであります。

長崎県島原市本光寺所蔵の『混一彊理歴代国都地図』(日本は東西列島として正しく描かれている)





室賀信夫氏が畿内説の根拠として紹介した龍谷大学の『混一彊理歴代国都之図』(原図は本光寺図と同様に世界地図であるが、室賀氏はごく一部を抜き出して いる)





行基図(14世紀初頭の百科全書『拾芥抄』に収録されるもので、江戸時代初期までは日本地図のスタンダード)





また、中国正史25書のうち日本を南北に細長い列島と記述するのは一書として存在しません。逆に、隋書(636年作)、北史(659年作)、 通典(801年作)、旧唐書倭国伝(946年作)、新唐書(1060年作)は、日本を「東西五月行」「南北三月行」と東西に細長い島国として 記述しています。また、旧唐書日本伝(946年作)、宋史(1345年作)は「東西南北、各数千里」とし、日本が南北列島との認識はありません。
すなわち、中国側の日本列島の認識は歴史的にほぼ一貫して「朝鮮半島の東南に連なる東西列島」せいぜい「東南列島」であって、決して「南北列島」では ありません。

なお、「会稽東治」について三国志版本は「東治」とするのに対し、後漢書は「東冶」と記しています。 後漢書の「東冶」とは台湾対岸の福建省東冶 (先ほどの地図参照)と言われ、この後漢書を根拠として、古代中国人は日本列島が台湾付近まで南北に延びていると誤認していた、との説がありますが、 この説も誤りです。

すなわち、「東冶」とするのは以下のように後漢書・晋書・翰苑の三書に過ぎません。

三国志版本 会稽東治
後漢書・晋書・翰苑 会稽東冶
梁書・隋書・北史 会稽
通典 会稽間川
その他漢籍 記載なし

後漢書の成立は5世紀前半で三国志の成立(280年代)より遅く、後漢書倭伝は三国志魏志倭人伝を参考としながらも、誤った改変を加えたことは、 多くの識者が指摘しています。「東治」→「東冶」と改変したのもその一つです。魏志倭人伝は「その風俗・・・たん耳・朱崖(今の海南島)と同じ」 「倭の地は温暖、冬夏生菜を食す」、と南方風に記述していますが、陳寿は倭国が緯度的に海南島と同じ北緯度に位置すると見なしたわけではなく、 「会稽東治の東」の方向と認識していたのです(ただし、それでも南へ60~70度の方向誤認があります)。

ところが、この魏志倭人伝を参考とした後漢書の編者・范曄(はんよう)は、魏志倭人伝の南方風描写と「南へと南への里程日程記事」から、倭国は 福建省東冶の対岸の台湾東方に位置すると判断し、「会稽東治」→「会稽東冶」と改変したのです。なお、晋書・翰苑の「会稽東冶」は後漢書をそのまま 踏襲しただけです。

しかし、それ以外は、この三国志「東治」と後漢書「東冶」の関係を不審とし、梁書・隋書・北史は単に「会稽」、通典は「会稽間川」、その他漢籍は 「会稽」との文字すら削除してしまったのです。
以上から言えることは、「東治」「東冶」 「間川」にこだわるのは危険で、共通するのは「会稽」ということだけです。福建省「東冶」は永安三年(260年) 以降は分郡で会稽郡から離れ建安郡に属したので、各時代に共通する「会稽」の概念から外れています。この各時代に共通する「会稽」とは、会稽山 (揚子江下流の上海付近)を中心とする会稽郡のことで、古代中国では日本列島を会稽山の東方海上に位置するとして、60~70度の方向誤認をして いたのが大勢です。

以上のように、私の新説による邪馬台国=東九州大分県中津・宇佐(豊前)説は、倭人伝の里程日程、方向の論理および四大国の位置関係と完全な整合性が 可能となります。
豊前中津・宇佐地方は、考古学的にも早く文化の発達していたと認められること、また宇佐のあたりが奈良時代までかなり神秘視された特異な地帯で ありました。さらに地名比定からしても、中津・宇佐地方には「耶馬渓」「山国」「山国川」「山戸(ヤマト)」があります。

宇佐地方にもかなり古くから 「ヤマト」 の地名があったことは、古文書からも確認できると富来隆氏(豊前宇佐説)は指摘しています。
すなわち、宇佐八幡の社家の永弘家文書には鎌倉中期の弘長三年に向野郷 「山戸」、また小山田家文書には南北朝時代の康永・正平、さらに応安年間の 三通に 「ヤマト」 あるいは 「大和」 と記されています。

考古学的に見れば、銅剣・銅鉾文化圏は壱岐・対馬から北部九州、さらには本州の西中国地方および四国に及んでいます。邪馬台連合国家はこの銅剣・銅鉾 文化圏の中核を形成していました。

卑弥呼の首都邪馬台国は、大分県中津から宇佐にかけての中津平野に位置し、古代の行政区域では豊前に属します。中津・宇佐から福岡県京都郡にかけての 豊前地方は、筑紫地方と並んで銅剣・銅鉾文化圏の中核を形成し、地理的にも関門海峡を制しまた日本の地中海と言われる瀬戸内海に面して、この文化圏の ほぼ中央に位置します。

考古学から邪馬台国を探す場合、その候補地は「考古学的に見て、3世紀当時は相当発達しており、邪馬台国と比定してもおかしくない」、必要があります。
しかし、「3世紀の日本で、考古学的に最も発達しており中心である」との必然性はありません。倭人伝には「倭国が乱れ相攻伐すること歴年、すなわち 一女子を共立して王となす。名づけて卑弥呼と言う」、とあります。すなわち、邪馬台国は軍事力・経済力で諸国を圧倒して統合したのではありません。
逆に、諸国はドングリの背比べで決着がつかず、宗教的呪術力を持つ卑弥呼が倭国王に祭り上げられたのです。

このような宗教的権威者の所在地は、3世紀の倭国の経済文化の中心地と一致するとは限りません。従って、「考古学的には、3世紀の倭国で最も発達した 地域は博多湾岸(三雲遺跡など)→邪馬台国は博多湾岸」、とする説は短絡です。

更に言えば、現在の考古学会が遺跡・遺物の出土分布を都道府県別に区分しているのも問題です。それによれば、福岡県と大分県では遺跡・遺物の出土分布は 福岡県がより濃密です。しかし、古来の行政区分の豊前地方は明治時代に山国川をはさんで北部は福岡県、南部は大分県と真っ二つに分割されています。
例えば、現在は福岡県に属する北九州市、行橋市、豊前市や京都郡は江戸時代までは豊前の領域でありました。従って、古代の遺跡・遺物の分布を検討する 場合、福岡県・大分県の比較より、筑前・筑後・豊前・豊後の比較がより妥当性があります。

例えば、古鏡の研究で知られる樋口隆康氏(邪馬台国畿内大和説)が3~4世紀初の「古墳発生期の鏡」と題して鏡が出土した府県別の古墳・遺跡の分布数は 次の通りとなっています(平成8年に福岡で開催された古代史文化フォーラム「三角縁神獣鏡と邪馬台国」で発表された資料)。

福岡県 41箇所 岡山県  7   香川県  6   石川県  2

大分県  2   兵庫県  8   徳島県  3   岐阜県  1

佐賀県  4   大阪府  3   愛媛県  2   長野県  2

山口県  3   奈良県  9   島根県  2   千葉県  2

広島県  7   京都府  7   三重県  1

この古墳・遺跡分布では福岡県は41箇所、大分県は2箇所です。ところが、福岡県の41箇所のうち昔の豊前に属するのが17箇所もあります。
そうすると、昔の行政区分で分類し直すと、筑前・筑後が24箇所に対し豊前は19箇所となり遜色ない数値となります。

また、考古学者で別府大学教授の賀川光夫氏などの調査によれば、宇佐市内の遺蹟総数は333ヵ所、そのうち古墳は156ヵ所もあります。
さらに明治末期、場所は宇佐からだいぶ離れるが、日豊本線の工事のさいに、行橋~新田原の間、約4キロの間に60あまりの古墳が取り潰されています。
また昔、この線を汽車で旅行したときには、古墳の群にさえぎられて海が見えなかったという話も未だに伝えられています。

平成13~14年にかけて、山国川下流域の福岡県築上郡大平村の唐原地区遺跡群で、大環濠集落が発掘され佐賀県吉野ヶ里遺跡、壱岐島の原の辻遺跡に 次ぐ規模を持つことが確認されています。これは、国道10号線の建設に伴い一部が発掘調査され、竪穴居住群、水田跡、甕棺、石棺墓、ガラス玉、 鉄製品、内行花文鏡片などが出土していますが、全貌はまだ明らかではありません。この地域は大分県中津市からは山国川をはさんだ対岸で、私が 邪馬台国と想定する領域(中津平野を中心とする豊前地方)の一部です。

さらに宇佐には謎の神社とされる宇佐神宮があり、この宇佐神宮が建つ亀山は古墳というのが地元では常識とのことです。なお宇佐神宮については、 のちほど詳述します。以上のように、豊前中津・宇佐地方は考古学的にも地名比定からしても、邪馬台国の資格を十分に備えております。




https://www.youtube.com/watch?v=gAgH6HzhSl4&t=1793s

「親魏倭王」を「親魏大月国」と対比する。

岩屋外相 ウクライナ訪問 シビハ外相らと会談 支援継続伝達へ

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