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安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は1960年7月19日に内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣が発足する。 池田の総裁選出時の祝賀会で岸が右翼に襲撃を受けて負傷する、閣僚選出に当たっては女性(中山マサ)を大臣に初めて起用するなど注目を浴びる船出となった[261]。 池田政権はその後、2度の解散総選挙と4度の内閣改造を経て、1964年11月9日まで続く長期政権となった。
1960年、[中山マサは]日本初の女性閣僚として、第1次池田内閣で厚生大臣として入閣する[2](中山の入閣を進言したのは後の内閣総理大臣・大平正芳)。在任期間は5ヶ月と短かったが、母子家庭への児童扶助手当支給を実現した。1969年四男・正暉に地盤を譲り引退。
池田以前の戦後の保守政党出身の歴代首相の関心はもっぱら独立と戦後処理の外交で、吉田内閣は講和独立、鳩山内閣は日ソ国交回復、岸内閣は安保改定と、歴代内閣はいずれもハイポリティックスのレベルで大きな課題を処理してきた。それが左派勢力から「逆コース」と批判を受け、1960年の安保闘争で頂点に達した[251][268][269][270]。一方で、内政面での政策はほぼ各省の立案に頼っており[271]、経済政策を全面に押し出す首相はいなかった[272][273]。池田は、吉田内閣では大蔵大臣として外交に傾注する吉田に代わり経済政策を主導したが、岸内閣ではハイポリティックスの安保改定を特に強硬に主張していた。政権発足当初は池田内閣は"岸亜流内閣"というのが世間一般の見方で[274]、政治・軍事を中心とする外交の課題を前面に押し出してくると考えられていた[269]。
政権発足時に秘書の伊藤昌哉が「総理になったら何をなさいますか」と尋ねると、池田は「経済政策しかないじゃないか。所得倍増でいくんだ」と答えたが[275][269]、伊藤は池田が本気で「所得倍増計画」に取り組むとは思っていなかった[269]。側近の前尾繁三郎も大平も宮澤も反対した[269][276]。
「池田時代に、経済発展を国家目標の中心に置いた政治が始まった。田中角栄はその子である」[314]、「田中の『日本列島改造論』は池田の『所得倍増計画』の延長線上にある」[314]、「『日本列島改造論』は『所得倍増計画』の地方版」[325][309]、「『日本列島改造論』や小泉純一郎の『骨太の方針』も、いわば池田の政治手法にあやかったもの[326]、池田の後に登場した政権の大半はイデオロギーなしの、無定見な高度成長を追い求めていた」などと評される[327][314][328]。
- 宮澤喜一は「池田さんは占領時代にインフレから日本を救う過程で身につけた自由主義的市場経済の信念に加えて、ケインズの乗数理論を具体化して、投資→雇用・所得・消費→投資の循環と拡大を見事に日本経済の中に実現した」[337]、「"所得倍増計画"というのは、ケインズ理論を中心とした政策だが、日本の経済成長、工業化を通じて、完全雇用、高賃金になるという雰囲気をはっきり国民に植え付けて、政策的にそれを誘導したというのが、あの政策の値打ちでしょう。それが池田さんの功績だと思う。池田内閣の時、まさに日本が経済大国になる基礎ができた。戦争が終わって、外地から沢山の人が引き揚げてき、戦後の日本は深刻な失業問題を抱えていた。加えて日本は農業国だったし、この労働力が過剰にあったことが、日本の工業化ひいては所得倍増を可能にした」などと述べている[338]。