石井秋穂(1900-1996)はもと日本陸軍軍人。かれは陸軍大臣東条英機の側近で、戦時中の国策の立案を任務としていた。当時、日米開戦など、重要な国策は御前会議(天皇陛下の御前で決議される会議)で検討されたのだが、そういう国策の原案を書いていたのが陸軍の石井秋穂や海軍の藤井茂らだった。 石井は終戦後のNHKのインタビューに応えて次のように述べている。 「[日米]和解となれば、あの時には日本は支那から撤退せにゃいけくなりますね。それでわしは考えたんですがね、支那から撤退するとなると満州も含む。それにもかかわらず、賛成する人がおろうか。おったら、それは本当の平和主義者か、そういう人が、ずうっと上の人からね、下の方の幹部に至るまで、誰かおるだろうかと考えたら、おらん、誰も。 結局、理論的に申せば、どれもこれもみな問題があったことになりますけどね。 それを正直に申せばね、侵略思想があったんですね。それが限りなくね、あっちこっち。これが済んだら、今度はこれというふうに、侵略思想があったんですよね、もとは。そういうことになりましょうね。」
https://www.youtube.com/watch?v=Fsf3NZM2pTM&t=614s