2021年11月2日火曜日

社会全体に責任があるという主張は、社会の誰にも責任はないという主張になり、自己矛盾に陥っている

@ゆうちゃんともみじ 「失うものがないやつを野放しにしている社会全体の責任」 という主張には二つの意味が考えられる。 (1)社会には危険な人間を社会から隔離する責任がある。(犯罪人になりそうな人間は犯罪を犯す前に隔離しておくべき) (2)失うものがないような不幸な人間を生んだのは社会である。(そもそも犯罪人を生むような社会が悪い) どちらの意味にとってもこの主張には問題がある。 (1)の場合は、犯罪をまだ犯していない未来の犯罪者をどのようにして識別するのか、という問題がある。さらに、まだ犯罪を犯していない無罪の人間を逮捕(隔離)することは正当化できるのか、という倫理的問題もある。 (2)の場合は、犯罪はすべて社会的環境のせいなのか、人間には選択能力(自由意思)はないのか、という問題がある。 そして、どちらの意味にとっても、この主張は「人間には自由意思がない」という前提で成り立っている。(1)の場合は、誰が未来に犯罪を犯すかは、それが起こる前にすでに決まっていることを前提にしている。つまり、人間にはそれを避ける選択肢(自由意思)はなかった、ということになる。(2)の場合は、環境が人間の行動(犯罪)を決めているのだから、犯罪者にはそもそも初めから犯罪行動を避ける選択肢(自由意思)はないことになる。 人間に自由意思がないとすれば、人間にはその行動の責任はない(犯罪者はその犯罪行動を避ける選択肢がない)ことになるのだが、そうなれば社会のだれにも責任はないことになる。社会のだれも責任がないのなら「社会全体の責任」という主張も成立しなくなる。つまり、この主張は自己矛盾陥っていて、この社会全体責任論は論理的に破綻している。

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