それで考えたんだけど、思想信条の心の自由といっても、そもそも選択肢があってこそ初めて心の自由があるわけで、そういう選択肢が存在するためには、だれかが思想信条を社会の中で表現している、つまり誰かが誰かに思想信条を語りかけている状況が存在していて、自分もそれを聞くことのできる環境にあることが、自分の心の自由の前提になっている、と思ったんだ。
欲しくもない商品の宣伝も、興味のない宗教の勧誘も、自分の意見に反対する側の政治宣伝も、耳障りで聞きたくないものだけど、まさにそれを許している社会であることが、選択肢があることを証明しているわけで、そのことが個人それぞれの心の自由を保障している。
要するに、心の自由(第20条)と表現の自由(第21条)はどちらが欠けても成立しない、という結論にぼくは至った。